ピアノの上のテッシュボックス
東京で生まれ、その後神奈川県に移り住みました。
ピアノは3歳になる歳に個人経営のヤマハピアノ教室に入会。
幼少期の性格は物怖じしない活発で人懐っこい子供でした。
ピアノ教室では先生の勧めで個人レッスンとグループレッスンとを受講していました。
個人レッスンの先生はとても厳しい先生で、泣きながらのスパルタ教育。
ピアノの上にテッシュボックスが置いてあったことを記憶しています。
グループレッスンは、現在のヤマハ教育の先駆けでした。
音感教育やリトミックは担当になった先生の個性が反映されたものでした。
教育だけは親の責務という考えが母にはあり、家庭環境が複雑だったのを払拭すべく、相模女子大学付属幼稚部に3年保育で入園しました。
黒いランドセル
幼稚部から小学部へ進学。
電車通学が始まりました。
近所の子達とは違って、制服とランドセルが黒だったのがとても好きでした。
学校の方針で情操教育に力を入れていた事から郊外学習や農業体験、川や海などの自然に触れる経験が多かったので、そういう事が好きだった私は学校が大好きでした。
この頃が自分にとって一番無邪気で楽しかった時期です。
ピアノを続けたい
小学3年、父の会社が倒産。
直後の半月程、夜逃げ状態で父母と神奈川から長野、奈良方面に行く。
その道中で母から事情を説明され、
「学校に行き続けたいか」、
「ピアノを続けたいか」
を問われ、泣きながら元の生活に戻りたいと懇願しました。
この出来事で、ピアノに対する気持ちが強くなったと思います。
結局は元の生活に戻るため、父は人世の清算をし、会社員となり、母もパートで働き始める事になりました。
父はその後、新たに昼は中華飯店・夜はスナックの店を開くのですが、3年もしないで経営を辞め、再就職することとなります。
その頃になって、父の前の奥さんの義理兄姉と会うことに。
普通は有り得ないことだと思いますが、義理兄姉は成人していて小学生だった私を可愛がってくれました。
ピアノの方は自分よりも弾ける子がいて伴奏者として選ばれる事も少なくなりました。
音楽教室では聴音・ソルフェージュクラスと個人レッスンに通うようになっていました。
その間に個人レッスンの先生が3回ほど変わりました。
3人目の先生はアレンジが上手な先生で、クラシックだけでなくポピュラー音楽なども練習曲として指導してくれて、いろんなジャンルのリズム感覚を教えてくれました。
そして上級クラスになると隣接する女性経営者であり、ピアノ講師でもあった先生の自宅へ習いに行くようになりました。
ピアノの人生を決める出会い
そんな6年生になったころ通学で使う駅のそばに桐朋学園「子供のための音楽教室」が開校し、そちらに移る事になります。
入塾から大学受験まで聴音・楽典はこの教室で学びました。
そして実技はそこで担当になった関晴子先生、江藤亜理子先生に学びました。
私にとってこの二人と出会ったことが、今のピアノの人生を決める出会い、私にとってのターニングポイントだったと思います。
それまで習ってきたピアノは上辺だけで、関先生のレッスンではハノンやチェルニー、インベンションの基本な奏法から学び直す状態でした。
関先生は桐朋学園大学で教えていて、先生が学生の頃に学んでいた江口元成先生からはとても厳しくレッスンを受けていたと聞きました。
江口先生は部屋に入った生徒の顔を見ただけで「今日のレッスンはやらない」と言って帰されたり、言ったことができないと楽譜が跳んできたりしたと聞きました。
胃が痛いレッスン
私へのレッスンは決してそこまでではなかったけれど、とても厳しく、当時の私はレッスン室へ行くまでに胃が痛くなるほどでした。
それまで趣味として弾いていただけの私は、音楽家になるための練習などしていなかったし、その心構えなど微塵も持っていませんでした。
とても厳しかったけれど、愛情に満ちたレッスンだったからこそ頑張り続けられたと思います。
ピアノを通して自己表現出来るようになるまでの技術習得は、先生からの教えだけでなく、見守ってくれているという心の支えがあったからと思っています。
自己肯定感
そして、もう一人の恩師、江藤亜梨子先生は関先生がコンサートなどで、レッスンできない時や私が課題にいきづまった時に、フォローレッスンをしてくれていました。
歳も10歳ほどしか違わなかったので、いろんな面で特に精神的にサポートしてくれました。
私自身はもともと自己肯定感がとても低かったのです。
それは、自分の生い立ちに引け目を持っていたし、私立校に通っていて経済的に裕福なお嬢さんがほとんどでした。
そんな環境で自分を取り繕いながら、周りの子よりも少しは上手だったピアノにすがっていた事も事実でした。
だからこそ学校でも音大を目指している子という立ち位置が欲しかったのです。
周りの人たちに、それまでの自分を認めて欲しいという思いで必死だったのです。
楽しい中学生活
相模女子大学附属幼稚部・小学部までは男女共学で学んでいました。
そんな小学部時代から、中学では女子校となりクラス数も2倍に増え、女子校特有の楽しい学生生活でした。
部活は音楽部(鼓笛隊・バトントワリング)のバトントワリングに3年間入りました。
音楽の先生は武蔵野音楽大学声楽科出身の男の先生で、とても歌が上手な先生でした。
この頃から音高・音大を意識してレッスンを受け始めますが、譜読みもテクニックも思い通りに出来ず苦労していました。
引っ越しもし、通学時間が増え、練習時間は毎日2時間位でした。
学業はというと、仲良しの子達はいつもトップ10に入って優秀だったのですが、自分はそうありたいと頑張るものの中くらいでした。
学校での自分の立ち位置がわかってきたこの頃から、それまで何んともなかった人前での演奏において、怖くなるほどの緊張を経験する事になります。
緊張との戦い
引き金となったのは、中1の時の出来事です。
「子供のための音楽教室」では夏と冬にレベル確認を兼ねた演奏会で弾かなければなりませんでした。
その時に同学年の子達とのレベルの違いを目の当たりにして、それまでの自分がいかに小さいものだったかを実感することとなりました。
母がよく言っていた、「少し出来る位で天狗になるな、上にはもっと上がいる」という言葉が心にずっしりと刻まれる事となりました。
それ以来、人前で、それも自分よりも上手だと感じた時、極度に緊張するようになりました。
ピアノに座った瞬間、手足が震え、弾いている途中には頭の中が真っ白になって思考がフリーズして、手が止まってしまうのです。
その様になっていても、演奏をやめる選択は無いから、必死に最後までやり遂げなければなりません。
私にとって演奏は精神的な戦いでした。
こんな事を繰り返すようになり、その解決策は、自信が持てるまでひたすら練習をし、そして場数をたくさん踏んで緊張のコントロールが出来るように、精神力を鍛えるしかないと思っていました。
しかしそれは上手くいかなかったのです。
周りと比べて
当時の私の性格は、小学校では感じていなかったのですが、中学位から周りの人の表情などがとても気になる要素があったと思います。
そして周りと自分を比べてしまう癖がついてしまっていました。
レッスンには下校後、直接行くようになり片道1時間半かけて通いました。
教科書だけでなく、厚い楽譜を4冊持って。
上手になりたかったのです。
高校受験はピアノと勉強との両立でしたが、それほど大変ではなく、毎日自分がこなさなくてはならない事に追われて過ぎ去って行きました。
友達の存在
高校時代はピアノ中心の生活でした。
通学時間と遠方のレッスンに通うため、また帰宅後に練習時間を確保すべく宿題を休み時間にやっていたので、一部の子達に嫌がらせを受けました。
附属高校の最大のメリットは普通の成績があれば大学受験が無い事です。
受験準備がない同級生はBFの話や、芸能界の話で盛り上がっていましたが、私の場合は、音大受験が失敗する可能性もあったため、附属の大学にも行かれるように常に成績を意識していた事と、下校後、直接レッスンに通うため、休み時間に宿題だけでなく楽典などの受験問題を解いていたりしていました。
普通ではない事をしているので目障りだったのだと思います。
面倒なクラス役員や実行委員などをやらされることになりました。
その様な事があっても学校が嫌にならなかったのは、大変な役員仕事や嫌がらせを受けていてもフォローしてくれる友人達がいたからです。
また、小学部時代からの親友が東京芸術大学の美術科を目指すことになり、外部受験を志す同志としてお互いに心の支えとなり励まし合って頑張ることができました。
音大を目指して
高2からは夏期講習・冬期講習に行き、昭和音楽大学の三谷温先生、武蔵野音楽大学の重松聡先生に学び音楽の道に邁進していきます。
2人の先生から「もっと豪快に」「もっと自信をもってピアノに向き合っていい」と言われ、少しずつ人前で弾く時の緊張がコントロール出来るようになっていきました。
受験に合格。
それまで同級生達を見返したい気持ちを持って、ある意味ではそれをモチベーションにしていたので合格したことでそれまで辛いながらも頑張った自分に自信が持てた瞬間でした。
武蔵野音楽大学音楽学部器楽科に入学。
前原信子先生に師事。
副科声楽を学ぶ。
教える事が好き
コンクール経験は無いものの連弾や2台ピアノで学内演奏会に出演。
声楽、トロンボーンの伴奏を勤めました。
大学時代は多くの演奏表現を学びたく、前原先生、重松先生、関先生、江藤先生に師事。
江藤先生のレッスンのサポートで個人レッスンや音大受験の生徒さんも指導しました。
4年生では教育実習で母校の中学に行きました。
実習では人前で教える事はあまり緊張せず、人前で教えることも好きだと感じました。
また、たくさんの生徒さんと関わるのも楽しく充実した教育実習でした。
この事が後になって個人ピアノの講師になるかグループレッスンの講師になるかを選択でする際、就職先をヤマハ音楽教室のシステム講師(グループ講師)となる事を決めた経験となりました。
魔の嬬恋研修
卒業後はヤマハ音楽教室のシステム講師として町田、菅波楽器に所属。
グループレッスン、個人レッスンを受け持ちました。
ヤマハ音楽教室のシステム講師に合格すると、システム講師曰く「魔の嬬恋研修」なるものがあります。
話の通りスパルタすぎて、皆で泣きながら講師になるためのスキルを学びました。
準備や研修などとても大変でしたが、4月からクラスを任される責任の重さを考えると、やりがいに思えました。
研修での成績も良かったらしく、選ばれた新人講師が受けられる講習にも出席する機会に恵まれ、子供に教えるスキル磨きが出来ました。
また、楽器店主催のアンサンブル講習やグループレッスンの勉強会など積極的に出席しました。
楽器店主催のサロンコンサートなどでは、所属講師の中では人前での話し上手だったようで、イベントでは司会なども頼まれたりしました。
この時期は並行して実家で個人ピアノを8人前後、そして週末は江藤先生が都合で2年ほど国外にいらしたので、その代役で笹塚のピアノ教室に泊りがけで指導しにいってました。
結婚と妊娠
25歳で結婚しました。
横浜の社宅で生活しながら楽器店と実家の個人ピアノ教室を続けていました。
子供ができるまで、九段会館でのジョイントコンサートに2台ピアノで2度出演。
ソロ演奏では紀尾井ホールでのジョイントコンサートに出演。
子育てでは、長男・長女・次男の3人の子供がいます。
最初の妊娠の時は、ヤマハに勤務していました。
赤ちゃんの命
ヤマハではグループレッスンだったので、当時は100人を超える生徒数でした。
つわりはそれ程でもなかったのですが、1時間のレッスンで立ったり座ったり、歩き回ったりとわりとハードで。
張り止めを飲みながらレッスンをやっていましたが、体調が悪いからと座ってレッスンする選択肢はありませんでした。
最後は張りがひどくなってしまい、入院して治療を受けましたが流産してしまいました。
体調が悪くても仕事を選んでしまい、赤ちゃんの命を守ってあげられなかったことに深く傷つき、しばらく立ち直れませんでした。
そんな状況でもそう長く代行の先生にレッスンを頼めず、また生徒さんや保護者の方が待っていてくれていたので復帰を決意しました。
ただ心の中では2度と同じ過ちを犯さないように、新たな命が宿ったら仕事にけりをつけようと決心していました。
2度目の妊娠が判った時にヤマハを辞めました。
実家のレッスンを続けながら出産しました。
実家と自宅の二重生活
レッスンの時は母に見てもらいながら仕事を続けました。
レッスンは2日間、泊りがけで行っていました。
私は一人っ子だったので、母にとって結婚して家を出る事が相当ショックだった様子でした。
また、当時実家の生徒さん達も長く通ってきている子ばかりで、自分の生活環境が変わったとしてもレッスンを辞める事など微塵も考えたことがなかったのです。
学生の頃の様にピアノ練習に時間を取れず、技術が衰える恐怖が常にありました。
横浜にある自宅は社宅だったので、育児の間にヘッドホンをつけてクラビノーバで練習していました。
実家には車で長男を乗せて通っていました。
2日目のレッスンが終わって自宅に帰る途中、疲れてしまって睡魔に襲われることも度々ありました。
それでも子供を母に見てもらってレッスンに集中できる時間が持てた事が育児ノイローゼにならずに済んだと思います。
子育てに専念、そして再開
それから2年後に長女を出産。
早産の恐れから救急搬送され、入院の経験を経て出産。
半年後、夫の実家がある埼玉県上里町に自宅を建て、この引っ越しを機に子育てに専念しました。
長男が幼稚園の年長になるころ、ピアノを教て欲しいと言われるようになりました。
レッスン中は生徒さんとピアノに集中したいので子供達が居ない状況にすべく、お姑さんに子供たちを預けてピアノ教室を開きました。
口コミで徐々に生徒が増えました。
自分自身ピアノが弾けない先生にはなりたくないと思い、可能な限りレッスンには通うように心がけていました。
カウンセリング
長男が年中組になる頃、排尿障害になってトイレにこもって出られなくなるように。
保健センターの手配で心理士に見てもらったり、私自身のカウンセリングを受けることとなりました。
夫の育った町に引っ越してきて、近所の人は皆、幼いころから夫を知っているという環境でした。
また近くに義理母も住んでいて良い嫁、良い母でなければと、とても気負っていたました。
またそれまで培った仕事も手放して新天地にきて心にぽっかり穴が開いた状況ですごしていたのです。
そんな時、長男が通園バスで気が合わない子に意地悪を言われるようになり、バスに乗るまでトイレから出られなくなりました。
夫は仕事熱心だったのですが、育児に携わる時間もほとんどなかっし、家の中が片付いていなかったり、愚痴っぽい事を言うと厳しく言われ、、全てにおいてちゃんと出来ないといけないと思うようになりました。
そんな毎日の中、だんだん私自身に余裕が無くなっていき、長男も追い込まれていったのだと思います。
カウンセリングの先生には「あなたは決して子育てを間違っていないから、自信をもって育てていけばいい。今回の心配事は数年たてば、あなたにとって笑い話に変わるから。きっと息子さん本人は忘れてるものよ」と。
この時はこの言葉ですくわれました。
なにが正解かわからない子育てを一人で背負うには心細かったのです。
カウンセリングしてくれた保健師、久保さんに今でも感謝しています。
その言葉は本当でした。
今息子と話しても本人はすっかり忘れていて。
母親の心の状態がいかに子供に反映されるか…。
実感した経験でした。
その後、徐々に回復。
長女が年長になって次男を出産。
自宅レッスンは義理母に子供を預けながら続けました。
PTA
子供達の進級・進学を母親として模索しながら子供達を育てました。
PTAの役員や部活動の保護者役員などを通して、同世代のお子さんを育てるお母さまの直面している悩み事や、学校の先生方も多くの問題を抱える中、いかに生徒たちにより良い指導ができるか悩まれている事をしりました。
親として、また地域のお子さんを預かるピアノ講師として、どのようにしていけばよいのか悩む日々でした。
家事・育児・レッスンをすることに忙殺していた時、合唱の伴奏をすることになりました。
15年以上も続いている合唱団で、私の親世代、それよりも年上の方々ばかりでした。皆さん、人生経験が豊富で、たくさんのご苦労もされてきていますが、
「合唱に来ることが生きがい」と、長く通ってきていることをしり、改めて音楽の必要性を感じ、伴奏のお仕事にも力を注いでいます。
子供達の習い事に対して。
私自身はピアノを長くやってきていることもあり、その道のりは苦しいこともありましたが、投げ出さず踏ん張ることができる力が身についたと思っています。
この考えから、長男は小学校に入るまではピアノとバイオリンを習い、その後は少林寺拳法を初段。中学・高校では剣道二段を取りました。
いろいろな考え方があると思いますが、子供達に習い事ではある程度極めてもらいたいと思い、途中辞めたがることがあっても続けさせました。
武術に詳しい人と話した時にコミュニケーションが取れるから、辞めずに続けて良かったと言います。
長女は中学までピアノと書道を、そのあとは筝曲部に入って和楽器を楽しく学びました。クラシックだけでなく和楽器にも興味が出てきたそうです。
次男は兄と同じく少林寺拳法の二段を目標に現在8年目(兄を越えたいのだそう)です。
そして硬式テニスも頑張っています。
長男は浪人を経験しそれを機に自分のやるべきことに責任をもって行動するようになりました。
浪人する事が決まった時は、本人もそうだったと思うのですが期待していた分、ショックが大きく、母親としてどうしてあげるのが良いのか途方に暮れました。
しかし長男はというと、予備校に通っている間に、「受験はゴールではなく通過点。この先どうやって前に進んで行くか」ということをしっかり考えるように成長していました。
私は長男の頑張っている背中から、人生において挫折はマイナスなだけでなく、新たに成長する糧となることを学んだのです。
長男と2歳離れた娘は兄の浪人時代の大変さを目の当たりにし、彼女はコツコツ堅実にする性格だったので、準備周到でした。しかし受験期間は不合格への恐怖から精神的に不安定になったりもしたのですが、最後には「やるだけやった、悔いはない」と思えたようで、無事に大学合格を果たせました。
しかし第一希望は叶わず、その後自分で納得して学べる道を切り開いていきました。
私はそれまで頑張れば結果がついてくると子供達を育ててきたのですが、この子育ては全てには通用しないという事を長男の受験で学びました。
だからこそ娘の受験期にどうやってサポートするかが最大の課題でした。
答えは見守ること。
私自身が全身全霊でどんな時も受け止めてあげられる状況にあることだけでした。
そんな兄姉の背をみて長女と同じ時期に次男も中学受験をして合格。
将来を真剣に模索し始めている。
いま感じることは、今まで必死で子育てをしてきました。
これは現在進行形で、これからも続いていきます。
しかし、子供の成長は親が思っているよりも早く、個性も育まれています。
自己肯定感が低めだった私という親から子供達は
「完璧なんて無理」
「1つずつクリア出来たらgood」
「頑張ってるから偉い」
とちゃんと自身でモチベーションを考えられるようになっています。
ダメダメ親からちゃんと成長してくれています。
まだまだ親心でいつも心配しているのですが、その気持ちで子供達を縛ってはいけないと思っているところです。
子供達を信じようと思って。
我が子が選ぼうとしている道を。
ピアノレッスン
お子様にとって、今、ネット社会となり音楽も携帯やゲーム機から沢山溢れている社会になっています。
しかし生の楽器の音は波動によって聞こえてくるもの。
音を体で感じるもの。
どれだけの5感が刺激されているのでしょう。
またピアノ演奏とは想像力、判断力そして表現力がとても大事になってきます。この力は人とのコミュニケーションを取る時にも大切です。
言葉一つとっても、その人を傷つけていないか、思いやりをもって接しているかなど。
そんなこともピアノを通して学んでいけるとおもっています。
また、上手になったことを褒めて貰う経験によってお子様の自己肯定感が上がり、健やかな成長のお手伝いが出来ると確信しています。
シニア世代の方はこの何年か先、誰かにお世話される事に大きな不安を持たれていると思います。
デイサービスでの経験上、その様になるまでの間に、いかに生き生きと楽しく過ごしてきたか、どれだけ精神的に充実して生活できていたかという事が、認知症を発症したとしてもその後の幸福感が変わって来ます。
ピアノが弾けなくなっても、歌を歌ったり、音楽を聴くことで穏やかに過ごせたり。
そんな風にいつまでも幸せを感じていられるようなシニアライフのお手伝をしたいと思います
生徒さんとの思い出。
〜思春期は心の成長。再確認させてくれたミカちゃん~
小学5年生ミカちゃん。
それまでピアノを別の先生に習っていたのですが、レッスンがつまらなくて行きたくなくなってしまい、私のピアノ教室の話を聞いて、通い始めることになりました。
おしゃべりが好きな女の子でした。
お母さまもとても気さくな方で、体験レッスンでも楽しそうに我が子を見守り、お話上手な方でした。
レッスンをしていくうちにミカちゃんが思春期特有の「親と話すの面倒」
とか「うざい」という言葉が出てくるようになりました。
「そんなに心配しなくても」「少しほっておいて欲しい」「自分を信じてないの?」と心の中で思ってしまうと打ち明けてくれました。
私も子育て経験者なので思春期に悩んだいた頃を振り返り、お母さまとミカちゃんの架け橋になれればと思いました。学校の友達の事や塾の事。
中学になると部活の事での悩みを打ち明けてくれるようになりました。お母さまとも連絡を取っていたのでミカちゃんへの心配事など聞きながら、レッスンでの様子をお話ししていました。
そのようなやり取りをして数年がたち、ミカちゃん中学3年。
「親ってちょっとした事でもすごく心配する。
でもそれって大事に思ってくれてるからしょうがないんだね~。」
鬱陶しい⇒親心を理解するまでに心が成長していました。
そんなミカちゃん。その後もずっとピアノに通い続けて幼稚園の先生になりました。そしてとても両親思いの優しい女性になりました。
幼稚園のイベントではピアノ上手な先生として子供達に大人気になっています。
~生徒さんの幸せを感じられるピアノ教室~
埼玉に引っ越して数年経ち、知り合いの先生からの紹介で知り合った葵さん。
小学校・中学校・高校・大学とピアノ教室に通って来ていました。
大学受験の時は保育士になりたいと相談を受け、見事合格。
その後は先生になってからのことを考え、子供達へのアプローチの仕方などを一生懸命にレッスンで学んでいました。
早くから目標をもって取り掛かる生徒さんだったので、保育園に就職したその年にはクラスを任されていました。
葵さんはとても勉強熱心だったので就職してもレッスンにきていました。
もちろん発表会にも出演。
仕事をしながらもピアノを弾くのが好きだからと頑張っていました。
就職してから2年ほどが経った夏に行われた発表会。
客席に葵さんのお母様と並んで座る人がいました。
発表会が終わった後に葵さんから「紹介したい人がいる」と
言われて行ってみると、先ほどの人が立っていました。
「実は結婚することになって。
婚約者なんです」と。
小学生の頃からレッスンを通して見守ってきた葵さんの人生の旅立ちに、とても嬉しかったのです。
ほとんど身内のような感覚だったと思います。
そして大好きなディズニーランドで挙式をしました。
その後、レッスンは来られる時に続けて、家庭と仕事を両立し出産の時に休会することになりました。
しばらくたって「先生、子供に会ってもらえますか」と連絡をもらって会いに行くと葵さんそっくりな可愛い男の子のママになっていました。
「自分にとってピアノを習って本当に良かったと思っています。
この子にも習わせたいんです。
まだ赤ちゃんなんでもう少し経ったら。
私もまた一緒に」
私は葵さんの赤ちゃんを抱かせてもらいながら、しばらく忘れていた懐かしい赤ちゃんの温もりを感じて、本当にピアノ教室をやっていて幸せだと心から思ったのです。